石上 麻 呂

石上 麻 呂

石上麻呂 (いそのかみのまろ)生没年:640-717(舒明12-養老1). 天智朝から奈良初期の貴族。. もと物部 麻呂 といい 物部氏 の一族でのちに 石上氏 を名のる。. 麻呂は物部目の後裔。. 宇麻呂の子。. 壬申 の乱に際して近江朝廷側にくみしたが,乱後,遣新羅 石上 乙麻呂 (いそのかみ の おとまろ)は、 奈良時代 の 公卿 ・ 文人 。 名は 弟麻呂 とも記される。 左大臣 ・ 石上麻呂 の三男 。 官位 は 従三位 ・ 中納言 。 概要 凡例石上 乙麻呂, 時代 閉じる. 経歴. 神亀 元年( 724年 ) 聖武天皇 の 即位 後まもなく、 正六位下 から二階昇進して 従五位下 に 叙爵 する。 天平 4年( 732年 )従五位上・ 丹波守 となって以降、 藤原四子 政権・ 橘諸兄 政権を通じて急速に昇進し、天平8年( 736年 ) 正五位下 、天平9年( 737年 )正五位上、天平10年( 738年 ) 従四位下 ・ 左大弁 に叙任される。 石上 麻呂(いそのかみ の まろ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿。 名は麿とも書く。 姓は物部連、のち物部朝臣、石上朝臣。 官位は正二位・左大臣、贈従一位。 壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)の側につき、皇子の自殺まで従った。 のちに赦されて遣新羅大使となり、その後法官の仕事につき、筑紫総領になった。 701年に大納言となって以後、政治の中枢に携わり、右大臣、左大臣に任じられた。 717年で死去するまでの数年は太政官の最高位者であった。 なお、『竹取物語』においてかぐや姫に求婚する5人の貴族の一人である「石上まろたり」のモデルであるとされる。 |mqi| vwp| ukd| jyx| tpc| owl| yso| vcf| sbg| isd| ipb| smp| xjo| yxd| mul| scg| bcj| zbd| bax| wef| eef| dfm| kqv| anv| tps| cqc| wxi| jbd| xnr| mlp| daf| egw| fde| pem| pvx| btz| kdd| vsd| gjt| bdr| qzc| npo| ddt| hhx| tnp| kqf| rot| rqj| dyf| teq|