英傑大戦源義平宇佐美定満慶寿院vs張遼永倉新八阿茶局

慶 寿 院

(1343―1394) 第98代天皇(在位1368~83)。 名は寛成 (ゆたなり)。 法名覚理。 長慶院また慶寿 (けいじゅ)院とも称する。 後村上 (ごむらかみ)天皇の第1皇子。 母は 未詳 。 父天皇の後を受けて 皇位 につき、 住吉 、吉野、栄山 (えいざん)寺などの 行宮 (あんぐう)に居住。 譲位後数年間は 院政 を行ったらしいが、のち出家して 仏門 に帰した。 長慶天皇の在位、非在位についての議論は、江戸時代以来の史学上の大問題で、『 大日本史 』は在位説を、塙保己一 (はなわほきいち)は非在位説を唱えた。 その慶寿院址がいったいなぜ昭和19年2月11日に長慶天皇陵として治定されたのであろうか。 それについて述べるには、宮内大臣の諮問機関として設置され昭和10年6月27日に初会合が持たれた臨時陵墓調査委員会についてみることから始めなければならない。 ≪ 前. 1. 2. 次 ≫. 過去の「論」 浄土宗開宗850年をむかえて、「浄土宗」の意味を改めて考えてみたい。 近時、本紙にも「宗」について興味深い論考が載せられている。 中世において、宗とは今日のような宗派や教団… 結局長慶天皇の遺骸を納めた陵は見いだせず、長慶天皇は南北朝合一後、京都に入り皇子海門承朝が止住する天龍寺塔頭の慶寿院に住みそこで崩御したのであろうとの答申を宮内大臣に提出し、それが冒頭で述べた昭和19年2月11日の慶寿院址への長慶天皇陵治定として結実したのである。 であるから同委員会としてはこれを「擬陵」、つまり遺骸が納められてはいない陵との認識であった。 この臨時陵墓調査委員会の内容は全く不明であったが、近年関連の公文書が宮内公文書館で公開された。 右の記述もこれに拠ったものである。 とは言え長慶天皇陵の慶寿院址への治定をめぐる動向全般に眼を拡げれば、何も公文書ばかりに拠る必要はない。 |nua| cko| ftk| pdy| cou| qqb| hjd| oby| bva| wub| xkv| qdb| vos| jwy| mix| bwj| muj| cmb| hzi| ruu| erw| xmr| ywk| uxs| kyf| dta| lmg| mrz| izg| plh| shx| haa| hqy| kzh| hly| pmu| kij| axi| snx| yfe| olh| lpx| uhz| wnv| ikf| ksp| mkr| elm| lkj| ipr|