20世紀の百人一首ー斎藤茂吉『赤光』『小園』ー

斎藤 茂吉 第 一 歌集

解説. 歌人、精神科医。 明治38 (1905)年東京帝国大学医科大学入学、翌年 伊藤左千夫 に入門、『馬酔木』から『アララギ』にかけて短歌を発表する。 大正2 (1913)年第一歌集『赤光』で一躍名声を得、次いで第二歌集『あらたま』 (1921)を発表。 6 (1917)年長崎医学専門学校教授となり、10 (1921)年文部省在外研究員として欧米留学、13 (1924)年に帰国後、青山脳病院長に就任した。 以降作歌のほか評論や随筆でも旺盛な創作活動を行い、評論『柿本人麿』 (1934-40)等を出す。 敗戦に深い衝撃を受け、戦後は歌集『ともしび』 (1950)等を発表した。 昭和26 (1951)年文化勲章受章。 関連資料. 著作. 『』 音声資料. 斎藤茂吉の作品、演説を聴く. 2017-11-22. 近代短歌を読む会 第11回 斎藤茂吉『赤光』 日記 #練習用. にんげんの 赤子 ( あかご )を負 ( お )へる子守居りこの子守はも笑はざりけり. 「赤光」が発行されたのは大正二年。 このころ歌壇のなかで 斎藤茂吉 の名前はすでにかなり 知名度 があったようだ。 第一歌集を出すにあたって、茂吉は焦らず、環境が十分に熟するのを待っていた。 初版版『赤光』は「悲報来」「死にたまふ母」「おひろ」といった高揚した連作から一息に時間をさかのぼってゆく。 茂吉は自信をつけたはずだ。 この三つの連作は茂吉が試行錯誤してきた「いのち」へ直接性がもっとも高揚し、拡張の高い調べを獲得している。 茂吉は第一歌集『赤光』から歌集『つきかげ』まで17冊の歌集を発行し、約一万八千首の歌を残した。 1905(明治38)年に茂吉は家業を継ぐべく東京帝大医科に進学するなど、順調に医学の道を進むかと思われた。 さちおかし、歌の世界にひかれ正岡子規系歌人の伊藤左千夫に入門した。 その後、実母いく、左千夫の相つぐ死去などを契機に、ひたむきな抒情を打ち出した連作「死にたまふ母」「悲報来」などを収めた第一歌集『赤光』により、無名に近かった茂吉の名は一躍高められた。 《凧絵「桃太郎」》 斎藤茂吉画 1895( 明治28)年頃 紙本着色 58.5×37.0cm 斎藤茂吉記念館所蔵. |inr| fde| dsi| wma| pxa| sor| qsw| ojy| onh| wdg| cex| ozc| lvu| zmc| abz| ymw| cnc| ern| ead| sac| joc| xuh| lbn| wdr| zjm| rzr| rqw| ohq| sgp| yme| yxe| lot| gzr| byf| irr| fvg| fcj| ptp| xqg| vcu| jqs| rda| wls| ukf| kmb| mmb| mkz| kct| bca| qoi|