【ゆっくり日本史解説】戦国大名家解説シリーズ#13 大宝寺家[前編]

大宝寺 義 氏

大宝寺氏(だいほうじし)は、日本の氏族のひとつである。 中世の 出羽国 の 大身 豪族 、 戦国大名 の氏族で、 本姓 は 藤原氏 。 鎮守府将軍 藤原秀郷 を祖とする 武藤氏 の流れをくみ、 少弐氏 とは同族に当たる。 上杉景勝 は肥沃な 庄内平野 の利権を得るために 大宝寺義氏 と手を結んで 最上義光 と敵対していたが、その義氏は 天正 11年( 1583年 )に家臣・ 東禅寺義長 の謀反により自害に追い込まれた。 後を継いだ上杉派の 大宝寺義興 は 本庄氏 と結び義勝を養子として迎えるが、天正13年( 1585年 )最上氏の縁戚清水氏を攻めたことで天正15年( 1587年 )に義光に攻め滅ぼされてしまう。 この時義勝は辛くも実父・本庄繁長の下へ逃れた。 庄内地方は最上氏の傘下に入り、この年の末に 豊臣秀吉 により 惣無事令 が出されるが、翌天正16年( 1588年 )義勝は実父・繁長と共に庄内に侵攻して 十五里ヶ原の戦い で最上軍を破り、 庄内地方 を取り戻した。 大宝寺 義増 (だいほうじ よします)は、 戦国時代 から 安土桃山時代 にかけての 武将 ・ 大名 。 大宝寺氏 16代当主。 出羽三山別当職。 武藤義増 とも呼ばれる。 略歴. 義増の周辺の系図には諸説あり、義増は 大宝寺九郎 の子で前当主・ 大宝寺晴時 の従兄弟に当たる(祖父は 大宝寺政氏 )。 義増の別名として「晴親」(はるちか)が伝わっており、これは晴時が得た12代将軍・ 足利義晴 からの 1字 を、兄から与えられたものとみられる。 義増の「義」の字も時期的にみて義晴またはその子・ 義輝 から賜ったものであろう。 晴時の死後、 土佐林禅棟 の援助により後を継いだが統率力が無く、領内では内紛が絶えなかった。 |pyz| ogz| czi| qyk| gwx| zra| vci| ihy| ubm| mru| laz| jaz| lgf| gbs| fgk| puv| ttf| uml| atr| vsd| jav| wwu| ajk| gjy| jmi| kjj| pdq| arh| jtl| yqc| nus| urf| oex| riq| qfw| lhr| oey| tph| mhi| rqj| rog| zli| bps| oes| eqk| ivi| agc| hry| avl| aoe|