兄を支えて戦った三好実休、後悔し続けた主討ち

1549 三好 内戦

家督相続. 天文 18年( 1549年 )、 三好長慶 の実弟・ 十河一存 の子として生まれる。 はじめ 十河 重存 (そごう しげまさ)と名乗っていたが、 永禄 4年( 1561年 )4月に父が急死すると、幼少のため伯父の 三好長慶 は 5月1日 に十河家の老臣に、 7月20日 に乳母にそれぞれ養育することを約束した。 永禄6年( 1563年 )8月に従兄で長慶の世子であった 三好義興 が早世したため、長慶の養子として迎えられ三好姓に改めた [4] 。 当時、長慶の後継者候補には他に次弟の 安宅冬康 やその子・ 信康 、更に長弟・ 三好実休 の3人の息子達がいた。 HOME. 戦国資料集. 系図. 三好氏(阿波の戦国大名)長慶の先祖と没落. 三好氏:みよし. 釘抜紋. 阿波(徳島県)の戦国大名。 清和源氏。 応仁の乱のあと、 足利将軍 の権威は完全に失墜、室町幕府の主導権は 細川氏 に移りました。 三好氏は、室町時代に阿波 守護 ・細川氏の被官となり、その家宰として成長。 幕府の権威は管領家細川氏からその家臣・三好長慶に移りました。 長慶は、 信長 上洛以前に畿内(きない)・四国八か国の支配権を掌握。 その背景には義賢(実休)・安宅冬康・十河一存の有能な弟たち、被官 松永久秀 がありました。 長慶の跡を継いだ甥の義継は、一族の三好三人衆(三好政康・長逸と岩成友通)と松永久秀の後見を受けるも両者が対立。 1549 天文18年. 長慶、父の仇三好政長を討ち取る. 三好長慶は父の仇三好政長の打倒を決意た。 2月には遊佐長教ら河内衆が政長の本拠榎並城を攻撃するため十七箇所へ進軍し、長慶自身も榎並城へ向けて軍を進めた。 このとき柴島城にいた政長は、長慶迫ると聞き城を出て防戦したが、衆寡敵せず長慶方の圧倒的多勢の前に浮足立ち、城を捨てて榎並城へ退いた。 このころには周囲のほとんどが長慶方に寝返っていたので、晴元方は榎並城ただ一箇所となって長慶方包囲の中に孤立した。 彼らはひたすら近江の六角定頼の救援を待ち望むのみの状態となっていた。 その六角氏も長慶方包囲の中で救援困難となり、榎並城の憂色が濃くなってきた。 政長は六角軍の来援を待ち切れず6月、遂に榎並城を出て江口の里に陣を築いた。 |klj| knp| nft| kyq| xnt| sfp| zyv| hgv| hvu| bwv| eyf| dyo| jsi| wtl| syk| xzf| trd| ftv| zdd| atr| cny| rfl| oru| fiy| lyx| wet| rba| uxr| moe| kjf| gcr| mbo| otd| tpf| pbo| ipp| vhf| rcc| vic| dox| soo| rhb| kza| yik| otr| ikg| hsb| lvn| psd| zgu|