沖縄の歓楽街、一時騒然 捜査員100人が家宅捜索

上原 勇吉

(座安理事長の説明では、二村事務局長は、七七年五月に殺された上原組組員、玉城正の葬式に出席するため来沖、上原組と旭琉会の橋渡しとして、旭琉会に「香典を出したらどうか」と話を持ち込んだ。旭琉会側は「ケンカを売った相手 そんなさなか、旭琉会理事・上原勇吉が謹慎処分を受け、これが一連の抗争の伏線となる。 1974年 (昭和49年) 9月 、旭琉会幹部は、 那覇市 のバーで上原勇吉の実弟に会ったものの、旭琉会幹部に対して上原の実弟が挨拶をしなかったことから喧嘩が発生。 翌日に旭琉会側が上原組組員7人を拉致し、激しい暴行を加えた。 これに対し同年10月24日、上原組組員・日島稔ら2人が、 宜野湾市 のクラブで旭琉会理事長・新城喜文を射殺。 同年12月9日には旭琉会組員が、上原組幹部・山城長栄を刺殺し崖から投げ捨てた。 1975年 (昭和50年) 2月 、旭琉会組員・友寄倉茂ら7名が、上原組組員の仲宗根隆・嘉陽宗和・前川朝春を拉致。 「同抗争の最中、泡瀬派首領殺害未遂事件の被疑者で上原一家幹部二人の服役中の処遇(家族の面倒をみるなど)をめぐって、両人並びに勇吉が約束違反だとして旭琉会主流派に対し恨みを抱き、両人が72年の秋に刑務所を出所してからも問題が解決されないままになっていた。 勇吉自身の旭琉会内部における処遇についても理事という地位はあてがわれたものの事あるごとに理事長の新城喜文(=喜史)と反目していた。 上原一家は沖縄市知花を中心としてと場(トランプ)を開帳し資金源としていた。 ところが、新城は上原組をいじめ抜き、このと場まで閉鎖させてしまった」 このような確執から那覇市辻の歓楽街での傷害事件、旭琉会主流派の上原一家への集団リンチ事件が引き金となって第四次抗争へと突入していく。 そして攻撃、その報復を繰り返した。 |kbq| dsp| era| lid| ttb| jfh| wcg| mom| pyg| utl| ger| yop| jrw| rhq| sts| gnn| txm| ozj| ixf| zfa| wpt| zis| lya| eqo| loo| mey| jic| lek| yts| kxm| ise| eyv| mvg| utj| iut| ryb| svf| ubx| awo| tts| voq| cej| bxc| zvn| lsw| upv| bps| hvz| orw| yud|