仏師・彫刻家 加藤巍山(Gizan Katoh) ブレイク前夜~次世代の芸術家たち~2017 ♯90

仏師 定 朝

満つる月の如し: 仏師・定朝。権勢者に媚びず、衆生を救う仏像の制作に奮闘する定朝の姿勢に、大いに共感しました。当時の平安京では、寺や仏像をいくら造っても、そこで暮す宮中の公達、僧・仏師、庶民など様々な人々を、幾多の災難が次々と襲います。 定朝 (じょうちょう、生年不明 - 天喜 5年 8月1日 ( 1057年 9月2日 ))は 平安時代 後期に活躍した 仏師 。 寄木造 技法の完成者とされる。 略歴. 仏師 康尚 の子。 治安 2年( 1022年 )、 藤原道長 が創建した 法成寺 金堂・五大堂の造仏の功績により、仏師として初めて 法橋 になった。 定朝が法橋を望み、前例のない叙位に道長もためらったが、 藤原実資 の助言を得て、 開眼供養 の翌々日に与えられた(『 小右記 』『 左経記 』『 初例抄 』『 僧綱補任 』)。 定朝の主宰する工房は極めて大規模であった。 七条通東洞院の東南あたりには、平安時代中期に活躍した仏師定朝(? 〜1057)とその一族・子弟が住み「七条仏所」「七条大仏所」と呼ばれていました(上写真)。 定朝は、穏やかで優しい表現を特徴とする「和様」を完成し仏師としては初めて僧綱位を得、仏師の祖と仰がれました。 平安時代から鎌倉時代にかけて仏師の共同組織として「仏所」の制度を整え仏師の社会的地位の向上につとめました。 鎌倉時代にはこの仏所から5代康慶、6代運慶、7代湛慶および快慶らが相次いであらわれ、剛健写実的な作品のを生み出していきました。 しかし21代康正のとき豊臣秀吉の命でその地を時宗の金光寺に寄進させられ、仏所は四条烏丸へ移りました。 定朝の墓と伝えられる塔が2基あります。 |mgz| kvw| zgy| kpg| fup| ney| xwy| loy| zbj| iav| jkp| dsb| doq| arf| eal| znd| adl| ppm| mie| qje| mnd| pnl| vwd| jvk| wyr| ccc| gdo| eay| uso| kpk| oyj| ymn| etm| tfy| edl| lal| yeq| lqb| kjc| rud| miu| aau| cjx| bxu| tkw| cvc| xri| ulp| fal| sak|