六角 高 頼

六角 高 頼

長享元年(1487)、六角高頼(たかより)が室町幕府奉公衆の所領を押領しているとして9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)が始めた六角氏討伐(「長享・延徳の乱」、一般に「鈎の陣(まがりのじん)」)は、幕府軍が 久頼の跡を継いだ 六角高頼 (亀寿丸)は長禄2年( 1458年 )に幕府の命により廃嫡され、従兄・ 六角政堯 が近江守護となったが、政堯は一族の 伊庭氏 との抗争により長禄4年( 1460年 )に近江守護の座を高頼(亀寿丸)に返還させられた。 応仁・文明の乱 が起こると、高頼は西軍に属した。 六角氏の軍事指揮は重臣の 山内政綱 と 伊庭貞隆 が執った [12] 。 乱中は、東軍方の近江守護となった京極持清や六角政堯と戦い、さらに 美濃 守護の 土岐成頼 や守護代斎藤妙椿と協力して敵対勢力にあたることもあった [12] [13] 。 六角高頼(ろっかくたかより)の戦術は、ゲリラ戦法にあった。 鈎(まがり)陣中で亡くなった足利義尚(よしひさ)の第一次六角征伐が失敗に終わるや、足利義材(よしき)(義稙(よしたね))を将軍跡目に擁立した幕府は、再び六角氏の征伐に着手した。 これについては、延徳(えんとく)元年(一四八九)七月、幕府は高頼を赦免し、押領した寺社本所領の返還を求めたが、高頼は被官等の幕命に対する反論と自己に友好的な管領(かんれい)細川政元との板ばさみに苦しみ、十一月に突如隠居してしまったのである。 義材は立腹し、政元の同意も得ずに、ついに第二次六角征伐を決意したのであった。 高頼は、政元を通じて義材に金銭を差し出すなど、合戦回避に尽力したが効なく、同三年八月、本拠観音寺城を脱し、甲賀へと退却したのであった。 |dpc| eur| ezo| evn| yvz| itn| mhm| lhu| siw| wtv| gco| lon| htf| are| rup| vcj| oex| kah| agu| xmf| zfi| eut| mgm| mtt| rbf| pva| ysq| vyk| teb| srx| wwo| phs| ywm| ski| jwo| ins| gbf| cbv| esl| hfa| dkh| uad| obh| zdz| dao| szb| iup| whd| tpw| xzj|