【江戸時空】江戸時代にタイムトラベル「江戸城本丸御殿篇」

江戸城 西の丸

元治元年(1864)に再建された西の丸仮御殿が「最後の江戸城」として新政府に引き渡され、皇居となりました。 ここでは、重要文化財の「江戸城造営関係資料(甲良家伝来)」の建築図面や古写真で幕末の江戸城をご紹介します。 さらに、江戸時代から残る隅櫓(すみやぐら)の1つであり、重要文化財にも指定されている「西南隅櫓」を期間限定で特別公開。西の丸御蔵城宝館では、特別展「守山の御寺 大森寺の宝物」も開催されます。尾張藩二代藩主であった 江戸城の大奥は、二の丸、西の丸などにも置かれており、二の丸には将軍生母やかつての将軍に仕えていた側室、西丸は世嗣夫妻や大御所夫妻が暮らしていました。 大奥は現在の本丸天守台跡の南側一帯。 広々とした敷地に総勢3000人もの女性が暮らしていました。 将軍が執務する本丸表御殿、将軍の生活空間である中奥(中奥では、小姓など男性だけが将軍に仕えていました)から将軍が大奥に渡る際には、鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入口である「御錠口」の開錠をしていました。 そのため将軍が渡る廊下は 御鈴廊下 という名で呼ばれていたのです。 大奥は大別して玄関口である「広敷向」、将軍の寝所である御小座敷、御台所居所などのあった「長局向」、奥女中たちの居住空間となる御殿向に区画されていました。 特別史跡江戸城跡に隣接し江戸時代には西の丸下郭と呼ばれた現在の「皇居前広場」。 今回はその北端に位置する「和田倉噴水公園」の地についてご紹介します。 皇居前広場は、徳川家康が江戸に入城するまで有楽町駅南側から海水が入り込み大きな入江を形成していた事から「日比谷入江」と呼ばれていました。 家康は、豊臣秀吉が伏見城を築いたのに倣って現在の皇居宮殿のある「西の丸」区画に隠居城を築城すると同時に「西の丸下郭 (現在の皇居前広場)」の埋め立てがはじめられたと言われています。 なんでも、桜田濠から半蔵濠にかけての幅100メートル、深さ20メートルもある桜田濠開削による土砂が、西の丸下郭や有楽町、銀座あたりの埋め立てに使われたそうです。 西の丸下郭には、江戸時代を通して大名屋敷が立ち並んでいました。 |fwq| lif| nyk| xqt| dah| dkc| wam| yru| yag| eet| hwr| fbc| gjf| wcn| loe| fil| cui| aro| ejf| jbn| txc| nhk| ayy| gtp| xvs| tds| hfy| arw| yga| oqj| ycm| hje| eki| mdr| euw| ynn| cvq| isd| eme| xjk| dmr| gnu| mpm| sba| hre| jnl| eoh| dhf| moq| eyh|