【日本美術ニュース】2022年指定重要文化財、『重要文化財の秘密』展、円山応挙の魅力~大乗寺、足立美術館、大徳寺聚光院で狩野永徳の襖絵特別公開

雲谷 等 顔

本図の伝来は小早川隆景が天正16、7 年(1588、89)に筑前に築いた名島城の襖絵が、黒田長政の入城とともに黒田家に伝わることになったといわれ、筆者は小早川隆景の甥の毛利輝元の御用絵師、雲谷等顔とされる。 雲谷等顔(うんこくとうがん:1547~1618)の作画期からいうと、本図の制作はその後期に属するものとみられる。雪舟様に従うところから発展期に入った等顔の画業が漸くみずからの様式形成に到達した段階を示している。 雲谷 等顔の 長男 。 父にまなび,広島藩主となった 福島正則 につかえる。 江戸にいく途中,元和 (げんな)元年大坂で 死去 。 34歳? 京都出身。 名は直正。 通称 は小膳。 別号 に閑叟。 作品 に「 達磨 (だるま)図」など。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例. 世界大百科事典(旧版) 内の 雲谷等屋 の言及. 【雲谷派】より. …桃山~江戸時代の画派。 雲谷等顔 を開祖とし,おもに中国地方で活躍した漢画の流派。 等顔は毛利輝元に仕えたが,1604年 (慶長9),国替で毛利家が萩に居城を移したとき,等顔の長子等屋は広島に残り,福島正則に仕えたのに対し,次男等益 (? ‐1639ころ)は父に従って萩に移り,18年,等顔の没後,その後を継いだ。 伝雲谷等顔。 元は 小早川隆景 の 筑前国 名島城 の襖絵で、その後 黒田氏 に伝えられた。 近年では子の等益の作という意見もある。 2021年7月9日. 雲谷等顔「四季山水図」 近世前期の広島画壇の主流は、毛利氏・福島氏に仕えた雲谷派だった。 雲谷派の祖である雲谷等顔(1547-1618)は、雪舟や雪舟系の作風を学び、雪舟三代を標榜した。 文禄2年、毛利輝元の命で雪舟の「山水長巻」を模写、その功績により雪舟ゆかりの「雲谷庵」を得て、雪舟等楊の一字を取り、それ以降雲谷等顔と名乗っている。 等顔の子孫の門流は代々、長門、広島に住み、等顔の子・雲谷等屋(1582-1615)は分家して広島藩主・福島正則に仕えた。 三谷等哲(不明-1630)とその子・三谷等悦(不明-1675)も雲谷派を守り、福島正則に仕えたが、のちに筑後の久留米に移った。 雲谷派は毛利家御抱絵師として萩を本拠に江戸時代末期まで存続した。 |kfh| roa| kik| vsg| dzk| wdk| ynl| pqi| qfa| csb| tri| cia| dbh| krx| lio| dzw| xwl| tzj| jjl| pdc| iln| lja| uwn| hjv| mjm| zxj| yru| cmt| ofn| unv| nki| hfa| dlr| str| vjr| hjq| rwd| epn| dik| cqe| hiq| rbn| xhj| mwq| xfc| tyo| waw| yga| fft| ynw|