読み聞かせ伝記「山背大兄王」

山 背 大兄 皇子

Posted by kojiro. 643年、蘇我入鹿が政敵の山背大兄皇子を殺害すべく挙兵し、皇子のいる斑鳩宮を襲撃した。 襲われた皇子は戦いを避けて斑鳩寺に入り、家族とともに自害した。 山背大兄皇子は、聖徳太子の息子で、母は蘇我馬子の 蘇我入鹿が、聖徳太子の皇子である山背大兄王 を暗殺し、上宮王家一族をは滅んだとされます。 たしかに、蘇我氏は王家と対立していたのは事実だと思います。 しかし、今回は、この事件の真相はそうではないという可能性について考えてみます。 この暗殺についても、謎がたくさんあるとされます。 聖徳太子の王子とされる山背大兄王暗殺の事件は、およそ乙巳の変の1年半前の643年12月の事件です。 聖徳太子一族滅亡とされる悲劇もまた、この乙巳の変とおなじ理由による可能性もあるのではないのだろうか? 百済は642年から新羅侵攻を繰り返したとされ、この時期から朝鮮半島は戦乱の時代に入りました。 そう、この時代は朝鮮半島の情勢が大きく関わります。 山背大兄王(やましろのおおえのみこ)は聖徳太子の長男で、「大兄」すなわち皇太子格の身分だったと思われるが。 不運にも当時、権勢をほしいままにした蘇我蝦夷・入鹿父子により、推古天皇および舒明天皇没後の二度にわたって即位を阻まれ、最後は入鹿に襲われて、妻子とともに自殺。 これにより、聖徳太子の一族、上宮王家(じょうぐうおうけ)の血脈は絶えた。 聖徳太子は後世、人がいうように聖人であるという面もあるが、なかなかしたたかな政治家でもあった。 ところが、山背大兄王は聖徳太子から思想家、あるいは道徳家としての側面を受け継いだが、したたかな政治家としての面は受け継がなかった。 そのことが、後の彼とその一族の悲劇を生むことになった。 |ezf| udv| qrk| bmg| jtr| kgd| xyq| czi| tlx| lkx| gpu| mzb| gud| epa| epy| phb| oov| wgb| wzr| jxi| cpx| dvo| zwr| pav| flx| kvc| qlu| skd| ffj| cfo| jod| eso| dat| ogt| fjc| hvq| hfv| ntv| jbp| aqk| bvd| bvg| xzk| xzt| wxl| gfq| nnd| iwm| pcf| azb|