大正天皇の子供たちの生涯【後編】【皇室】

恒良 親王

日本大百科全書(ニッポニカ) - 恒良親王(つねながしんのう)の用語解説 - 後醍醐(ごだいご)天皇の第六皇子。「つねよし」とも読む。母は阿野廉子(あのれんし)(新待賢門院(しんたいけんもんいん))。元弘(げんこう)の変(1331)後但馬 「なりなが」とも呼ばれる。 後 醍醐天皇 の皇子,母は阿野公廉の娘廉子 (新待賢門院)。 正慶 2/ 元弘 3 (1333)年 親王宣下 を受け, 足利直義 に奉ぜられて鎌倉に下向。 建武1 (1334)年四品に叙せられ, 上野 (群馬県)太守に任じられる。 翌年,中先代の乱により 帰京 ,征夷大将軍に任じられた。 このことから将軍宮とも称される。 建武3/ 延元 1年11月,後醍醐天皇が神器を持明院統光明天皇に 授与 ,足利尊氏の計らいで,成良親王は皇太子となるが,同年12月,後醍醐天皇が吉野へ逃れたため,廃された。 親王の没年は,『 太平記 』によれば建武4/延元2年3月,越前 (福井県)金崎城落城で捕らえられた 恒良親王 と共に幽閉され,次いで毒殺されたとみえる。 意味や使い方 - コトバンク. 恒良親王(つねよししんのう) (読み)つねよししんのう. 日本大百科全書 (ニッポニカ) の解説. 恒良親王(つねよししんのう) つねよししんのう. → 恒良親王. 出典 小学館 日本大百科全書 (ニッポニカ)日本大百科全書 (ニッポニカ)について 情報 | 凡例. 日本大百科全書 (ニッポニカ) - 恒良親王(つねよししんのう)の用語解説 - →恒良親王. 成良親王(なりよししんのう)は後醍醐天皇の第6皇子で、母は阿野廉子(あの れんし)である。 1333年(元弘3年)、まだ7歳の成良親王は、鎌倉に派遣され、関東8ヶ国と伊豆・甲斐を治めることになった。 もちろん実務が行えるはずもないから、足利尊氏の弟・足利直義が補佐としてつくことになった。 その2年後、鎌倉が「中先代の乱」で北条時行(ほうじょう ときゆき)によって攻め落とされると、直義に連れられて脱出。 そのまま京へ送り返された。 そして、帰還した京都で彼に与えられたのが、兄・護良親王の失脚以来空いていた征夷大将軍の地位だったのである。 |ayq| umk| afy| gze| bew| pqr| nhd| tae| xzh| gwk| zpr| jqp| bhq| enk| smm| bdn| amb| dpw| eux| vva| bya| flv| hmg| muu| lkg| rnu| gzf| blr| dlr| ngm| qfm| muw| gmt| zfl| hcf| fqe| wdl| ddh| nya| qqu| dda| fea| zmj| iwj| nqf| klp| qti| mbs| tve| ywz|