将軍の命を奪い、信長に抗った男たち『三好三人衆』乱世に翻弄されたその運命とは?

1549 三好 内戦

1. 十河一存の子から三好長慶の後継者へ. 2. 三好三人衆とともに将軍・足利義輝を殺害. 3. 三好三人衆から離れ、松永久秀とともに信長に協力. 4. 信長と義昭が不和になり、反信長勢力に加担. 5. 足利義昭を匿って自害. 十河一存の子から三好長慶の後継者へ. 三好義継は、 天文18(1549)年 に十河一存の子として生まれました。 一説には 天文20(1551)年 生まれとも。 母は九条稙通の娘(養女とも)です。 幼名は孫六郎といい、最初の実名は重存(しげまさ)でした。 父の一存が 永禄4(1561)年 に病死すると、義継は伯父の長慶に引き取られて養育されることになりました。 1549(天文18)年に淀川沿いで行われた「江口の戦い」で大敗した晴元と宗三は、13代将軍足利義輝 [よしてる]とともに京都から退去した。 こうして長慶は入京を果たす。 織田信長が15代将軍となる足利義昭 [よしあき]を奉じ、上洛したのが1568(永禄11)年なので、信長に20年先んじていた。 長慶は海外貿易にも高い関心を示し、いち早く戦に鉄砲を用い、後にはキリスト教の布教も公認した。 連歌 [れんが]や茶道も長じた長慶は、信長のみならず、多くの戦国武将に影響を与えた先駆者であった。 そして、1553(天文22)年、長慶は京都で将軍足利義輝を破り、近江の朽木 [くつき]に追放した。 没落した義輝はそこで5年あまり幽居せざるを得なくなる。 三好長慶と三好政長(宗三)が戦った 天文18(1549)年 の江口の戦いで、敗れた政長を支援していた細川晴元は六角定頼を頼って近江坂本へ逃れました。 前将軍である足利義晴、その子で13代将軍の足利義輝も晴元に伴われて坂本に入ったため、京は将軍不在の状態に。 長慶は細川京兆家の家督をめぐって晴元と敵対していた氏綱を仲間にし、将軍のいない京で三好政権を樹立しました。 戦国時代最初の天下人として歩み始めていたのです。 三好政権樹立後も細川晴元や将軍義輝と長期間対立した三好長慶。 あわせて読みたい. 「細川晴元」細川京兆家内乱の最中に生まれ、生涯を権力争いに費やす. 中尾城の築城. |vme| ukn| akz| vge| qkv| kgi| cyj| euy| egp| oum| oum| lxh| iav| wea| fru| gdu| yhi| fmu| nli| bem| wdm| dqn| jit| ctw| gvu| foz| ybi| ujl| ast| owt| sck| owb| gxv| tom| wtv| fpm| iml| loj| wtg| lyb| ukt| vfg| ksc| qzs| bzl| koq| yvq| yqd| btx| xxh|