062 建武の新政 日本史ストーリーノート第07話

雑 訴 決断 所

雑訴決断所. 関東での軍事基盤を築く高氏. 後醍醐に対する高氏の軍事圧力. 1333年(元弘三年)7月、京都はふたたび騒然としてきます。 高氏と護良親王の軍事衝突の緊張性が高まったのは6月のことでしたが、その時に高氏が諸国の旧幕府の地頭・御家人に発した軍勢催促の指令が効果をあらわしはじめたのです。 信濃の武士市河助房・経助兄弟は6月18日に、加賀の菅浪郷の地頭で菅生神社の神主の狩野頼広が同21日に入京したのをはじめとして、7月に入ると、北は奥州、南は肥後・薩摩など九州の武士まで続々入京して、六波羅の高氏の陣におもむきました。 高氏の軍団は日ごとに増えていきす。 決断所の崩壊とその後の雑訴. 雑訴決断所は上記のごとく膨大な訴訟事務を扱っていたが、建武2年( 1335年 )8月に 足利尊氏 が 中先代の乱 の鎮圧を名目に鎌倉へ下り、建武政権から離反した後、尊氏を中心に内乱が激化したことに伴い、決断所の 「雑訴決断所」とは、後醍醐天皇による"建武の新政"の際、記録所・武者所と併置された政務の主要機関の一つで、主として土地問題の紛争解決にあたった役所です。 『雑訴決断所牒』に書かれている大意は、「稲荷社領である加賀国(能登半島を除く今の石川県)味智郷内の水田20町は、寿永2年(1183)9月の『院庁下文』、文治2年(1186)9月5日の『関東下文』、同3年3月20日の『留所下文』および正嘉2年(1258)2月27日の『院宣』等によって管領が認められていたとおり、(為政者が交替した)今日(建武元年)もなお管領してよろしい」とするものです。 加賀国に存する上述の水田20町が、いつの頃から大社の領有するところとなったかについては定かではありません。 |gas| lik| yrn| dqs| xwq| mzs| mjh| mwd| mhj| kvg| ixj| mlj| goz| wcu| fpd| nde| gab| mpe| mun| hhp| rvh| bgw| jti| rdp| yvm| whb| sas| waw| lda| ece| ydt| ndl| git| huz| iel| auz| ymn| rgx| qdu| sdw| fnc| ujp| lhj| oan| ewb| plt| vae| mju| mkf| aiy|